「あわよくば」と期待する気持ちは、傷ついた結果被害妄想になる

人とのコミュニケーション中で、自分の願望を表現しないまま、相手や話の流れの結果で自分の願望をかなって欲しいと思っていると、コミュニケーションにトラブルが生じる危険が非常に高くなるので気をつけたい。

自分の願望はちゃんと表現しよう

会話の中で自分の願望が「あわよくば」かなって欲しいと願っているだけだと、当てがはずれたときにひどく傷つくものだ。

普段の人と会話をする時、自分ではそんなつもりではなくても、自分のこころの中に「あわよくばこうなって欲しい」という願望が隠れている事がある。
自分でも気づかないうちに願望を言葉にしたら断られるのではないかと恐れたり、願望の理由を説明するのが面倒だったり等のこころのブレーキがかかって、願望を言葉にしないまま会話を進めてしまう。

実はこのような状況は、想像以上に深刻な事態を引き起こす事になるので、早急に改善した方がよい。
深刻な事態とは、「会話の中で次第に相手が自分に対して敵対感情を抱いているように感じてしまい、会話そのものがトラブルに発展する」、というものだ。

事例:病院で短期入院をする手続きでの出来事

これは先日、私が軽い突発性難聴で病院で受診した時の事だ。

先生から「しばらく軽い飲み薬で様子を見ましょうか。1週間しても治らなければ、入院して強い薬の点滴を行いましょう。もしくはご希望なら今から入院で強い薬の点滴を行うのも可能ですよ。」と言われた。

実際、突発性難聴は発症から2週間以内しか治療可能期間がない。それ以降になると症状が固定してしまい、対処法が無くなってしまう病気だ。

自分の症状の程度からしたら少し大げさではないかとも思ったが、ちょうど最近疲れていたし、会社でもストレスをかかえる傾向にあったので、ここらで1週間入院するというのはベストチョイスに思えてきた。

仕事を急遽1週間休むのはかなり気が引けたが、医者から入院だと言われたという大義名分があれば対応可能だ。

ここで生じたのが、あわよくばの気持ちだ。

ここで「あわよくば」と表現しているのは、自分が明示的に願望を希望をすることなく、話の自然な流れによって願望が満たされるのではないかと期待する、というものだ。

「あわよくばこのまま行けば、まったくの不可抗力で降ってわいた1週間の自分の時間ができることになる。」と。
さっそく出勤して職場に事情を説明し、1週間の休暇申請を行い、再度病院で入院手続きに行った。

先生に「入院先の病院はどこか希望がありますか?」と聞かれたので、「特にありませんが〇〇病院なら聞いたことがありますが・・・。」と言った。

すると先生は、「その病院は混んでることが多く、点滴入院ではなく飲み薬治療になる可能性が高いけど、そこにしましょうか?」と言った。

私は「え?入院が必要だったんじゃなかったんですか?」と聞き返した。
先生は、「病院によって方針や見解は異なることはあります。どうしても入院がよければ他の病院を紹介しますよ。」と言った。

「これではまるで、私がどうしても入院したいと言っているようではないか。」

入院は実は私の願望であったのだが、この時点ではまだこれが自分の願望と認識できていなかった。

もし入院が必須なのでなければ、職場や家庭にかける負担が大きすぎる。とても自分で入院を希望できないと感じていた。

私の主張は「本格治療を今から始めたい」という事だけなので入院にこだわる必要はないのだが、会社に報告してしまった手前、どうしてくれるのだ!という苦情に差し変わっていた。
私はキレ気味に、「先生が先に入院が望ましいと言ったからそのつもりで会社へも1週間病欠の手続きをしてきたんです。私が入院したいと希望した訳ではありません!では逆に質問しますが、はじめから入院せずにステロイド飲み薬でも治療可能だったということなんですか?」と、その気にさせておいて今さらなんだ、というざわついた気持ちを吐き出した。

先生は、「私の見解は今でも、ステロイド治療は入院が望ましいと考えていますよ。」との事。

私は、「では、〇〇病院はただ混んでいるという理由だけで望ましくない対応を行っているという見解なんですね。」と言いたかったが、そういっても答えにくいだろう思い、言い方を変えて「私は、ただ混んでいるというだけで治療レベルを落とされるのは嫌です。」と言うにとどめた。

すると先生は、「じゃあ、〇〇病院は紹介先の選択肢から外しますよ、いいですね?」
私は、「はあ、・・・はい。(自分の方針と違う病院なのにそこに行かそうとするなんて不親切すぎる!しかもこちらの意思で除外したようにするなんて!なんで先生自身がおすすめしないと言ってくれないんだ!)」
もうここまできたらけんか腰だ。

先生は、「ではどの病院にします?△△病院か、××病院か・・、どこがいいですか?」
私はちょっと意固地になって、「どこがいいですかと言われても、何を基準に決めたらいいんですか?なんの情報もなければ決められません。」と言った。
先生「いや、それは患者さん側で選んでください!」
私「じゃあ、一度でも行ったことのある△△病院にします。」
先生「わかりました。△△病院でいいですね。」
私「は、はい。(いいですねって言われても判断できないって言ってるだろ!責任逃れだけか?この先生は!)」

今回のやりとりを振り返る

このようなやり取りがあり、私はその先生に完全に頭に来ていた。

初診の時には、症状の程度から適切な程度の治療を提案し、最大限の対応の選択肢もちゃんと説明する、すごくいい先生だと感じていた。
それがうってかわって、最大限の治療をお願いしたいと申告した際の対応では、なんて意地悪で責任逃れの保身だけのいやらしい先生なんだと感じるに至っている。

ここで改めて先生の言葉を冷静に振り返ってみると、さすがに発言は初めから最後まで事実しか言っていない。ではなぜそれを聞いた私は腹立たしく感じているのだろうか。

今回のやりとりの中での行き違いのポイントは入院と決定していないのに仕事の病欠申請をしてしまったりだとかいくつかはあるものの、一番のすれ違いは、
私のひそかな願望「あわよくば、不可抗力によるという大義名分の元で1週間の自分の時間ができる」という事が、崩壊したからだ。

つまり、入院できたとしても、先生が入院が必須と言ったという大義名分が無くなった事にある。

こころのざわつきの背景

通常は多少の行き違いくらいでは、そこまでカチンと来たりキレたりすることはない。

ではなぜ今回の事例では頭にきてしまったのか。

それは、あわよくばと、願望を相手にも伝えておらず、また自分でもはっきりと言語化できるレベルまで認識していなかったので、願望がかなわない状況となっても不満を表現する場が存在しない状況だからだ。

せめて自分だけでもはっきりと願望を認識できていたら、「実は入院によって休息できるかなと考えてまして、できたら入院できる所の方がいいんですが・・・」という言い方もできたはずだ。

しかし今回は願望を自分でも認識できていなかったので、そのいら立ちの原因を相手に転嫁しようとしてしまい、「入院って言ったでしょ!いまさら撤回しないで下さい!」などとあいまいな理由で激高してしまったのだ。

休みたいなら口でちゃんと言えばいいのだ。

ここから得られる教訓

自分の希望を、誰かの行動や意見に便乗してかなえようという密かな策略、いわゆる「あわよくば」な思いを持っていると、その誰かの何気ない言葉が通常の100倍意地悪に聞こえてしまい、結局は傷ついてしまい自滅する。

ここから得られる教訓は、願望を自分でちゃんと認識し、相手やその環境に対して主体的にアクションを起こすべきだ、というものだ。

間違っても、流れに便乗しておこぼれにあずかろうとか、相手が自分の都合のいいように振舞ってくれるだろうと期待してはいけない。

もし相手に期待したままにしておくと、それがかなわなかった時、自分でも気づかないうちに相手を恨んでしまうのだ。それは無意識のうちに。

昔読んでいた少年マンガ「ゴリラーマン」の中に出てるくセリフの1つに、
「人生は、期待してはダメだって誰がが言っていたが、どういう意味だろう?」
というものがあったのを思い出した。

読んでいた当時は、なぜ期待してはいけないんだ?人生に絶望しろというのか?」と思っていた。

今ふりかえって考えると本当の意味は、
「自分の願望を他人や偶然に期待すると、期待はずれだった時に傷つき、他人や世間を逆恨みしたり被害妄想になってしまったりするので、自分の願望は自分で手に入れるものだ。」という意味だったのだろう。

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