自分が何の専門家を目指せばいいのか定まらない

自分は器用貧乏なのかと自問自答してみる

例えば、自分はブログを書いていても色々な分野に手を出したくなるし、長続きしない。そもそも自分は情報発信できるレベルまである特定の分野での専門性を持ち合わせていない。

じっくりと一つの事に取り組めばいいというが、合わせ鏡の無限ループかのようにやればやるほど実体がつかめない。何をやっても最終的には独自性を見いだせず、誰かのための手段を提供しているだけとなってしまい、空しくなる。

芯のあるコンテンツやサービスにたどり着く予感が全くしないのだ。

例えば、ホームページ作成という仕事は、先発の成功事例との競争や競合をさけるためもあって、 独自性を求めようと模索した結果、最終的にはホームページが単にサイト管理者へ道具を提供しているだけに過ぎないと感じてしまう。

優れたホームページというのは、ある程度完成形が決まってしまっているので、ホームページ作成は自分でないとできないという性質のものではない、と考えてしまうからだ。そもそもホームページというのは、コンテンツの掲示するキャンバスでしかない。

そう言い出すと、世の中の仕事の大半は流通の連鎖の中間に位置していて、作業を分担しているだけに過ぎないのだけれど・・・。

もしかしてそれはそれで正解としてしまえば楽しいことなのかも知れない。流通の連鎖である「みんな」と共同で世界を作り上げ、果実を分かち合うのだから。

という事は、空しく感じてしまう問題の根本は、「みんな」を「みんな」と思えない点にあるのかも知れない。つまり、「みんな」を自分と仲間同士だと思う事ができたら、自分のやっている事の独自性などどうでもよくなるかも知れない。

「みんな」と共感できるなら専門業は不要

そう言えば、元暴走族で実業家の 加藤秀視さんという方の動画で、親に捨てられたという青年を更生させるドキュメンタリーのワンシーンを思い出した。

加藤さんは彼を自分の経営する建築会社に入れて更生を試みるが、彼は周りのみんなと孤立してしまう。

本人いわく、みんなが楽しそうにしていても共感できない。むかつくのだそうだ。

加藤さんは問題の本質が、彼が親へ抱いたままになっている恨みであると見抜き、これを解決しないと前に進まないと結論づけた。そして加藤さんは彼に、実の親は他界しているので養父との関係を見なさせる事で、事態が快方に向かったのだった。

ここでわかる事は、「みんな」と共感できる気持ちになれれば、自分の役割が歯車のひとつになっても充実する事ができるのだ。

しかし、現代の資本主義の世の中では、会社内ではアットホームは雰囲気により実現できても、会社を超えてそれを感じることはおそらく困難であろう。なぜならビジネス界は資本主義という競争社会だからだ。

器用貧乏から脱出して自分に専門業が必要なのは、最終的には「みんな」と共感したいからなのかも知れない。

専門業を見つけるには

話が脱線したので本論に戻ろう。解決したい課題は、「自分の専門業を見つけたい」、という事だ。 最近私が気になっているワードで言い換えると、「器用貧乏からの脱出」だ。

前のホームページ作成業のように、自分の専門業を探すにあたり初めは自分に向いていることは何かを探していたはずなのに、いつのまにか世間の中で存在価値がある事を探す話にすり替わってしまう。

実際、多少自分に向いている事に取り組んでいても、人から存在価値を認めてもらえなかったりすると、これは自分がすべきことではないと感じてしまう。

結局、ある事柄が、自分に向いているかどうかが重要に感じるのは、人に存在価値を認めてもらうためだ。
つまるところ必要なのは、自分に向いている事を探し当てる事ではなく、人に認めてもらえる環境を探し当てる事とも言えなくもない。

しかしそれだけでは自分のすべてを他人や環境に依存して生きていく事になりかねない。つまりリスクが大き過ぎる。

ではどうすればよいのか。

やっとここで話が元に戻るが、自分が向いている事に取り組めば、それだけで世の役に立ちやすいという側面がある。

ということは、人に存在価値を認めてもらえる環境が手に入りやすいという事だ。

ここでは、その事柄が、流通の中間に位置する単なる手段の提供であって独自性が希薄であったとしてもそれは問題ではない。

これらの事をまとめてみる。

1.最終目的は「みんな」と働くこと

充実感は人に認められて初めて感じる事ができるので、専門業を見つける事の最終目的は、人に認められる事やそのような環境を手に入れる事だ。

2.自分に向いている事を専門業にする

専門業を見つける方法として、自分に向いている事柄に取り組むというものがある。向いている事は言い換えれば得意な事なので、人の役に立つ可能性が高く、人に認められる環境を手に入れやすい。

3.向いている事が役に立つところで働く

自分に向いている事に取り組んでいても空虚に感じる時は、その仕事に独自性や意味がないからではなく、認める人が周りにいないだけだ。つまり、環境が合っていないのだ。そういった場合はニーズがあるところに移動すればよい。

4.ライバルは戦う相手ではなく追い抜く対象

戦いは嫌いだが、真の相手はライバルではなく、その先にいる顧客だ。ライバルは追い抜く対象でしかない。
(ちなみに自分との勝負というのは、完全燃焼する事により自分への一つの解答が出るので、例え勝負に負けても次へのステップへ晴れ晴れと進める状態の事を言う。)

読んでみたい書籍紹介

上記のような事をあれこれ考えている時、ふとリンク先のような記事を見つけた。

雑誌プレジデントオンラインの記事だ。

大富豪の口癖が”私は天才ではない”のワケ
「能力の輪」の外には手を出さない

どのような点にピンと来たのか。

一流の教育を受けた人でも世界は複雑なので完全に理解している人はいない。
理解できるのは世界のほんの一部にすぎないがそれでも世界を理解することにはやはり意味がある。

大富豪の口癖が”私は天才ではない”のワケ

この世で大成功している人でも世界を理解するのは不可能といっている。
理解できる世界をむやみに広げようとする必要はないと言っている。

ウォーレン・バフェットは、人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できが「輪の外側」にあるものは理解できない。
「自分の『能力の輪』を知り、その中にとどまること。輪の大きさはさほど大事じゃない。大事なのは、輪の境界がどこにあるかをしっかり見きわめることだ」と言っている。

大富豪の口癖が”私は天才ではない”のワケ

器用貧乏から抜け出したいと思っていたところに、なんとあのウォーレン・バフェットがストレートに解答してくれているではないか。

芸がたくさんあっても意味がないのだ。むしろ、1点に集中できるものを見定めるのがいいとの答えだ。
それなら、「能力の輪」はどうやってつくりあげればいいのだろう?
「能力の輪」の形成に必要なのは、「時間」である。それも、とても長い時間がかかる。
それからもうひとつ。「執着」が必要である。執着は一種の中毒だ。
だが、執着はよい方向に働くときもある。何かに執着している人は、そのひとつのことに何千時間も費やせる。
執着とは、エンジンが故障した状態を指すのではない。執着そのものがエンジンなのだ。

大富豪の口癖が”私は天才ではない”のワケ

中毒は悪いことのように扱われてきたが、そうではなく中毒は利用すればいいのだ。目からうろこが落ちた気分だ。

実はこれらの記事は下記の書籍の紹介記事のようだ。

Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法

読んでみたい理由

ぜひ読んでみたいが、自分としてはこの本に何を期待するだろう。
もうすでに今回の紹介記事で、多くのヒントをもらってもいる。

ただ現時点でわからない(知りたい)のは、以下の点だ。

  • 能力の輪の境界線をどのように見定めていくのか
  • 執着や中毒をどこまで野放しにしても大丈夫なのか

これらについてさらにヒントがあれば吸収したい。

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